Yongala号にまつわる歴史
ヨンガラ号は、1903年にオーストラリアのアデレード スチーム カンパニーが、イギリスのニューキャッスルで建造した。
進水と同時にその豪華で非常に力強い蒸気船は「プライドオブフリート(全艦隊の誇り)」と呼ばれるようになった。
1904年にオーストラリアに到着してからの4年間、西オーストラリアの都市と、東海岸の都市を結ぶ重要な航路を走り、豪華絢爛な内装もさることながら、「嵐の中も突き進むことが出来る強力な船だ」と評判になった。また、その頃からヨンガラ号は、経験豊富なナイト船長によって操船されており、船長の腕も有名になった。
ヨンガラ号は、長さ106.6m、4104トン。巨大な煙突とボイラーを搭載し、時速17ノットという当時としては非常に速いスピードで巡航することが出来た。また、そのボイラーが生み出す十分な電力は、豪華な船内照明や、冷蔵設備、客室の扇風機なども動かし、当時では信じられないほど快適な船旅を可能にした。
ヨンガラ号は、1906年にブリスベンに移動し、ブリスベンとクイーンズランド州北部の街を結ぶ航路に就航することになる。当時クイーンズランドは、まだ鉄道も道路も整備されておらず、船での移動が唯一の移動手段だった。ヨンガラ号は主に、ブリスベン、マッカイ、タウンズビル、ケアンズを結び、多くの人々と、物資を運んでいた。
1911年3月21日、ヨンガラ号最後の航海となったオーストラリアでの99回目の航海、ブリスベンを定刻を少し遅れて出発した。ヨンガラ号は、速度を上げ、マッカイには定刻に到着、乗客と物資の載せ替えを済ませ、3月23日、定刻通りタウンズビルに向けてマッカイを出港した。ケアンズに到着すれば、100回目の航海を記念し、新しく無線機を搭載する予定だった。
その日、マッカイを出発したヨンガラ号には、29名の1等客室乗客、19名の2等客室乗客、そして、72名の乗務員、ムーンシャインという競走馬1頭が乗っていた。また、名簿には記載が無いが、生後6ヶ月の乳児が1名乗っていたことが分かっている。
同じ日、マッカイにいたクーマ号という蒸気船は、気象局からマッカイとタウンズビルの間に発生したサイクロンの情報を得たが、その数時間前にヨンガラ後はマッカイ港を出港しており、まだ無線機を積んでいなかったヨンガラに、その情報は届かなかった。
3月23日、午後6時半、ハミルトン島にほど近いデント島の灯台守が、ヨンガラ号が航路を進む姿を見たのが、最後の目撃情報となった。その後サイクロンに巻き込まれたヨンガラ号は、失踪することになる。
ヨンガラ号を襲ったとされるサイクロンは、カテゴリー5(地球上最大規模)であったと言われている。風速は毎時250km以上、波の高さは10mを超えたと推測される。ヨンガラ号のような巨大な船であっても、太刀打ちできなかったであろう。
その後、海軍も含む数多くの船が捜索活動に出たが、何も手がかりは見つからなかった。ウィットサンデー諸島のどこかの島に避難しているのではないかと、沢山ある島々も懸命に捜索された。
しかし、3月28日の午前10時45分、「ヨンガラ号の船底近くに積み込まれていた荷物が、砂浜に打ち上げられた。」という一通の電報が、その望みも打ち砕いた。
その後、数々の漂着物が、ヨンガラ号が沈没したことを明らかにしていったが、どこに沈んだのかは、一向に謎のまま、長い年月がすぎた。
1958年、タウンズビルのトレジャーハンターが、この船の残骸を発見するまで、誰の目にも触れず、海底で眠り続けたヨンガラ号は、発見当時既に、信じられない数の魚と、巨大魚の住処になっていた。巨大な鮫が現れた。とか、巨大な魚に脅かされた、とか、そんな話が広まっていた。今も有名なタマカイ(クイーンズランドグルーパー)は、あまりの大きさに(車の)フォルクスワーゲンと名付けられた。
ヨンガラ号は、1976年に国の法律で保護されることになり、世界的に有名なダイビングサイトになった。
1989年にカテゴリー5のサイクロンAIVUがまたもヨンガラを直撃し、そのときの衝撃で、船の甲板部分などが吹き飛ばされ、現在の様にバスタブ、トイレ、エンジンルームなど、船の内部が見える状態になった。
現在のヨンガラ号は、船体のほとんどがサンゴに覆われ、更に何万何十万という魚に包まれて海底30mに横たわっている。
2m3m級のマダラエイの群れ、巨大なバラクーダの群れ、3mのクイーンズランドグルーパー、ギターシャーク、レオパードシャーク、巨大ウミガメ、畳サイズのロウニンアジ、マンタ、ジンベイザメ、ザトウクジラ、潜るたびに何かが出る。
アクセスの悪さが故、潜る人の数は少ないものの、ダイビングサイトとしては間違いなくオーストラリアナンバーワン、世界に出しても、引けを取らないダイビングサイトである。